●精進心(しょうしんじん)
     −扇はあおいてこそ 扇となる−

 大暑炎天(たいしょえんてん)のとき。猛暑の季節は体を
いっそういたわりたいものです。
 昔、宝徹禅師が扇を使っていました。そこへある僧がや
って来て、「風はすでにこの場所に満ちています(風性常住)
(ふうしょうじょうじゅう)。なぜ扇を使うのですか?」と
尋ねます。師は「君はここに風があると頭では知っているが、
風がない所はないという道理を知らないようだ」と答えます。
僧は「風があると、風がない所はないとは、同じ意味ではない
ですか」と返しますが、師は何も言わずに扇を使うばかり・・。
僧はその姿を見てハッと気づき、礼拝したという話です。
 扇はあおいでこそ、はじめて扇となるもの。たとえ大切な
ものがすでに手元にあったとしてももそれを働かせる精進心、
つまり努力して用いる心があってこそ、すべてのものが輝き
出すのです。人が人であるために、仏が仏であるために、
精進心は必要なのです。

   ●慈心(じしん)
     −お盆という慈しみ−

 九夏三伏(きゅうかさんぷく)のとき。七月から八月は、
全国的にお盆の季節です。お盆には、ご先祖様へのお参り
をはじめ、家族や友人たちとの再会という喜びがあります。
 仏教は人が人を拝むことを根本としますが、そこには常
に慈しみの心があります。すべての命に傾ける優しさ、
「慈心」です。しかしただ見た目の優しさだけでは慈心と
は呼べません。
ある日、恵心僧都源信(えしんそうづげんしん)が境内に迷い
込んで草を食んでいる鹿を見つけました。すると源信は人を
使って打ちたたき、それを見ていた人が「何と無慈悲な・・。
草が惜しくて鹿を苦しめるのですか」と尋ねると、源信は
「もしこの鹿を打たなかったなら、鹿は人を怖がらなくなり、
やがては命を落とすだろう・・・」と答えたということです。
かくも慈心には、見た目ではわからない奥深さが あるもので
す。

   ●無心(むしん)
     −白い雲のように−

 晴雲秋月(せいうんしゅうげつ)のとき。実りの秋とともに
お彼岸の季節です。お彼岸は「日願」とも書くように、太陽
への願いや感謝を捧げてきました。
 ところで仏教には、「中道」という何ごとも極端な考えを
戒める教えがあります。春分の日、秋分の日は昼夜が同じ長
さ、気候も平穏、天道は真東から真西へ・・・。まさに中道
の教えを振り返るに相応しい季節と言えましょう。
 人は、ともすれば毀誉褒貶に動揺し、世情に流されてしま
うもの。しかし太陽が天道を歩むように、人も堂々と世間の
中道を歩むことが大切です。例えば秋空に悠々と浮かぶ一片
の白雲。それは何ごとにもとらわれない自由で清々しい境地
そのものです。
 禅語では、こうした心情を「弧運本無心」と尊びます。
この季節、大空の雲を眺めて、あるがままの自分を見つめ、
もっと心を自由自在に遊ばせて見ませんか?